長谷川ももかの人生録。

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バレンタイン男子トイレ事件

 もうすぐホワイトデーなので、バレンタインデーの思い出を振り返ろうと思う。

 私は小学一年生から片想いしていたK君という男の子がいた。

 K君は学年で一番背が高くて、眉間の彫りが深く凛々しい眉毛をしていて、小学生にしては濃い顔立ちだった。性格は少々乱暴者で声が大きく屁理屈をよく言い、クラスでは割と問題児だった。けれども好きなことに没頭している時はとても静かで凛々しい顔がより際立ち、彼の横顔をこっそりと盗み見していた。又、年の離れた妹がおり、人前ではしないが誰も見ていない時は手を引いて歩くなど優しい一面もあった。

 クラスの女子たちからは格好良くないだとか煩いだとか、あまり評価は良くなかったが彼女たちは彼の良い所を何一つ知らないのであった。

 出会いは小学一年生の時だった。あまり女子の友達がいなかった私に色んな遊びを教えてくれた。学校にあった小さな畑周辺で秘密基地を作ったり、虫採りをした。私にとってお兄さん的存在であった。

 高学年になるとK君と遊ぶこともなくなり、会話をすることさえ無くなった。しかし、お兄さん的存在から好きな人へと私の心は変わっていった。

 高学年になると部活動が始まり、友達がいたからという理由もあったが、K君が入部すると聞いて美術部に入部した。そこでもなにか関わりが増えたかというとそうではないが、同じ空間にいられることが嬉しかった。

 6年生の冬。私は遂にバレンタインデーにチョコを贈ろうと決めた。学校自体お菓子の持ち込みは禁止であったし、内緒でチョコを渡している子もいたが勇気が出ず今まで渡せず仕舞いであった。けれども小学校最後のバレンタインデー。自分の気持ちを相手にぶつけたいという気持ちが強まっていた。

 贈ったものはチョコブラウニー。ピンクの箱にハートのデコレーションをしたものを一生懸命作った。当日は部活動があったのだが、そんなものそっちのけで、私の気持ちを知っている友達が髪型を可愛くアレンジしてくれた。

 当の本人は、周りの噂話と、部活内の雰囲気でなんとなく私の気持ちに気付いていたと思う。

 いざ部活動が終わり、先生が教室からいなくなった間に渡そうと意気込んでいたが、K君は私を見て猛ダッシュで教室を飛び出した。

 渡せず教室に残された私に、友人たちは今年最後なんだから渡さなきゃ!と追いかけるように指示をした。そこまでしなくてもいいかなと思っていたが、やはり想いを伝えたい気持ちが強く、追いかけることにした。

 彼の逃げた先は男子トイレの個室であった。もう駄目だ…と思ったが、一緒に追いかけて来た友人が私を男子トイレに押し込み、ドアを塞いでしまった。恐る恐る個室トイレに話しかける私。しかし返事は返ってこない。しかしこれを渡さなければトイレから出られない。私は意を決して、「チョコ投げるから取ってね!」と言い、個室に投げ入れた。本当に用を足していたら…便器に落ちてしまったら…なんて考えもせず投げ込んだ。

 チョコを渡したと友人に声をかけると、トイレのドアが開き、渡せて良かったね!と私の行動に爆笑しながらも激励してくれた。結局好きだということは口に出して伝えていなかったが、自分に出来る最大限のことをした達成感を感じたままその日は帰路に着いた。

 翌日。教室ではバレンタインのおかげでカップルになった子が数名おり、いつもより騒がしかったが、K君とは一言も会話をせず一日を過した。

 しかしその夜。K君からメールが1件届いていたのである。

 内容はシンプルに「美味しかったよ」それだけである。一応返信したがそれ以降は何も返って来なかった。けれども嬉しかった。一生懸命作ったブラウニーを食べてくれたことに加えて感想までくれたのである。告白はしなかったがそれだけで幸せだった。

 そして時は流れて卒業式。結局あれから一言も話していないが、チョコを渡せたことだけで私は十分満足していた。

 卒業式は丁度ホワイトデーの日だった。式が終わり、友達との別れを告げ家に帰ると、母親が可愛らしい箱を私に手渡してきた。それはK君からのバレンタインのお返しのクッキーであった。どうやら式の前にK君の母親から私の母親に渡されたらしい。「初めてバレンタインチョコを貰って嬉しそうでしたよ〜」なんて家での様子も教えてくれたようだ。それを聞いて、やはり勇気を出して渡せて良かった。逃げ回っていたけど迷惑ではなかったようだ。と安心と喜びでいっぱいになった。

 卒業後はそれぞれ別の中学に上がり疎遠となったが、文化祭の日にK君が遊びに来たことがある。少しは私のことを気にかけてくれていたようで、彼から話掛けてくれたし、クラスの模擬店も一緒に周ってくれた。やっぱりその日も告白なんてできなかったが隣を歩いているだけで幸せだった。

 それから一切会っていないが、K君はどのような大人になったのか時たまに思うことがある。あの時ちゃんと告白できてたら付き合えたかな。なんて後悔もあるが、今では良い思い出である。

 そんなバレンタインデーの思い出話であった。

 

 それではまた、次の記事でお会いしましょう。

両親の背中

 皆さんは自分の両親の背中を見てどう思っているだろうか。家族を守るために働き、自分を成人まで立派に育てあげてきたその背中を見て、偉大だと感じる人が多いと思う。私もその中の一人でとても立派だなと常に思っている。ただし一度だけ、その背中がひどく小さく見えた出来事があった。今日はそのことについて書いていこうと思う。

 まず、私の家庭環境についてだが、関東の某所の一軒家に父母と三人で暮らしていた。そしてそこから5分も歩かない場所に祖父母の家があった。

 母は私が生まれてすぐに職場復帰し、私はその間祖父母の家に預けられ、8:2位でほぼ祖父母の家で過ごしていた。私を保育園に入れることも検討したそうだが、虚弱体質であった私を見て、祖母が自分が面倒を見ると名乗り出たため、そのような生活スタイルとなった。

 朝は早く出勤する母に合わせて起床。朝食を手早く終え着替えもパジャマのまま祖父母の家に預けられ、母は仕事へ行っていた。私はその後祖母に身支度を手伝ってもらい祖母と一緒に幼稚園へ登園。閉園時は祖母が迎えに来てくれ(当時共働き家庭が殆どいなく、一人だけ祖母が迎えに来るのが少し恥ずかしかった。)、買い物に一緒に行きおやつを食べ午睡、起きたら遊び夕食を食べ、大体夜の9時過ぎ頃母が迎えに来て、自宅へ帰り風呂に入ってから寝る。という生活を10歳になるまで続けていた。

 普段両親との会話も少なく、それなりに不満を持っていたが、その分祖母がたくさんの愛情を与えてくれた。

 そんな時、事件は起きたのだ。

両親は仕事の付き合いで飲み会に行くことも少なくはなかったが事前に祖母に連絡を入れ、遅くなる場合はそのまま祖父母の家に泊まっていたりしたのだが、その日は何も連絡がないまま日付が変わっても迎えが来なかった。夜も遅いため、私は祖父母の家で寝かしつけられていた。たしか明け方頃だったと思う。玄関の方で何やら声が聞こえたため目が覚めた私はそっと玄関の方を覗いた。するとそこには、仁王立ちで両親を見下す祖母と、祖母の足元で土下座をしている両親がいたのだ。後に聞いた話だが、両親は仕事終わりに偶然駅で会い、そのまま飲みに行ったそうだ。そして今日くらいは連絡を入れなくても、早めに帰れば大丈夫だろうと思ったのも束の間、そのまま泥酔するまで飲み歩いて帰ってきたそうだ。もう祖母はカンカン。いくら自分から面倒を見ると名乗り出たからと言って、自分の子どもを預けて飲みに行く両親が許せなかったのである。私もそう思う。

 そんな事件があってからは、日付が変わっても帰ってこないということは無くなった。しかしあそこまで小さく小さく土下座をしている両親の姿は初めて見た。忘れられない光景である。

 どうしてうちには両親が常にいないのか、不満を抱えて生きてきたが、結婚して家庭を持った今、家事育児加えて仕事を同時に行うのはとても大変で覚悟がないとできない事だとわかる。時にはハメを外して遊びたい気持ちも痛いほど理解できる。しかしちょっとだけ、が大変な出来事に繋がる可能性もあるので気を付けていきたい。

 

それでは次のブログでお会いしましょう。

ピアノと後悔の話

 私は17歳〜21歳までの間、ピアノを習っていたことがある。習い始めた理由は進路に影響するからと、単純に父が弾いている姿を見て自身も弾いてみたいと思ったからである。

 通い始めた教室は実家の近くにある小さなピアノ教室だった。

 申し込みをし、レッスン初日。ピアノ経験全くの0だった私はドキドキだった。はじめは何を教わるのだろう。やはりバイエルあたりから教わるのだろうか…と。

 教室に着くと細身で長身の綺麗なマダムが待っていた。教室はお世辞でも広いとは言えない部屋に大きなグランドピアノが真ん中に置かれていて部屋の隅には年季の入ったソファが一つ置かれていた。マダムはタバコを召しているようでタバコの香りが漂っていた。

 早速ピアノの椅子に座り、自己紹介やピアノ歴がないこと、進路にピアノが必要なことなどをマダムに話した。するとマダムは「そうね〜、長谷川さんには何から弾いてもらおうかしら…」と言いソファーの横にある棚から楽譜を漁りだした。

 暫くして、ようやく決まったようで何やら分厚い楽譜をマダムは持ってきた。どうやら全集のようだ。え…まさかこの中の曲をいきなり弾くわけではないよな…?と不安に思う私。

 「長谷川さんにはショパンノクターン2番を弾いて貰おうかしら!」

 ショパン…?ショパンは聞いたことある名前だが、クラシック初心者の私にはノクターンがどのような曲か想像もつかない。受け取った全集のページを開いても、ページ内が音符で真っ黒である。これを今日から弾けと…?早速教室選びを間違えてしまったとそこで後悔した。それなのにマダムは追討ちをかけるように「今年の12月、その曲で発表会出てもらうからね〜。」と軽々しく言うのだ。

 発表会…?この曲を…?私はただ進路のためにバイエルが弾ける程度の技術を身につければ良いのだが…。ちなみにこの段階で7月位だったと思う。あまりにも無茶である。

 私はピアノ歴がなくいきなりは無理だと断りを入れたが、マダムは「絶対弾けるようになるわ!」の一点張り。家に帰って、ピアノ経験のある父に相談したが「お前には無理だろ〜」と言われた。しかしマダムは本気なのだ。

 これがマダムもとい恩師との出会いである。それから私は恩師の元でピアノ猛特訓の日々に明け暮れるのであった。

 恩師によるレッスンが開始し、もちろん楽譜が読めない私だったが、懇切丁寧に端から端まで教えてくれた。(しかし色々基礎的なことをすっ飛ばしているので、未だに譜読みが危うい)

 譜読みが完了すると右手の練習。その次に左手。最後に両手といった流れでレッスンは進んだ。表現や強弱、テンポなどは師から教わるのではなく感じろ…といった感じだったため、動画サイトで様々なプロの演奏を聴いて真似してひたすら練習した。

 そして約半年(半年もなかった)遂に発表会当日を迎え、ほとんどミスなしで弾ききった。あの時の達成感は今でも忘れない。

 その後も恩師はショパンやバッハ、ドビュッシーと様々なクラシックを弾かせてくれた。恩師曰く、基礎から学ぶのではなく、色々な音楽に触れて音楽そのものを好きになってほしいという意向があったようだ。そして私も、弾ける曲が増える度に自信に繋がったし、弾けている自分が楽しく感じられた。

 そして目指していた大学にも合格。このまま社会人になってもピアノは続けていくつもりだった。

 ところが就職後、あとで別の記事に書く予定だが、精神病を患い仕事も忙しく、練習がままならないまま次のレッスンの日が来てしまうことが苦痛に感じるようになっていったのだ。恩師は習っていた時から「音楽だけは絶対にあなたを裏切らない」と口酸っぱく言い続けていたが、その頃はもう私にとって音楽が辛い存在になっていた。

 恩師にそのことを伝えたが、やっぱり引き留められた。しかし私ももう限界で強引に辞めてしまった。本当は菓子折りを持ってきちんと辞めることを申し出るのが社会人として生徒として正しい行いだと思うが、当時の私にはそれも無理な位に辛い状況だった。

 あれから数年。あの頃のように新しい曲を覚えることは難しいが、今まで弾いた曲を懐かしがりながら、暇さえあれば弾いている。もう忘れたと思っていたが、体が覚えているようでスラスラ指が動いてくれる。辛いことがあってもどこかで音楽が私を支えてくれている。あぁ、私の人生、音楽というものに関われて本当に良かった。と思う場面にも何度も遭遇している。

 教室の方はというと、まだやっている雰囲気はあるが、実家に帰ったついでに覗きに行っても、タイミングが悪いのか恩師には会えていない。またどこかで会えたならば謝罪と感謝の気持ちを伝えたい。恩師が口酸っぱく言った「音楽だけは裏切らない」という言葉が本当だったことを伝えたい。また恩師と一緒にピアノが弾ける日のために、今日も練習を重ねる。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございます。次のブログでお会いしましょう。

宿泊実習奮闘記

 年末年始の休みが終わり、世の中がいつも通りの日常を取り戻し始めたこの頃、私はいつも思い出すことがある。

それが

『宿泊施設実習』

である。

 教育福祉医療関係の学校に通っている方なら誰しもが通る実習。苦々しい日々を送ったことのある人もいるのではないだろうか。

 私は福祉系の学校に通っていたため、どう拒もうとも実習は必修。単位が貰えなくなるため必死になって実習へ行っていた。

 今回の実習は施設へ通う形ではなく、利用者が暮らしている入居型の施設へ2週間泊りがけで行われることになった。

 とても嫌である。

 とても嫌だのに、今回は二人ペアで行かなければならない。それも嫌である。(人見知り故)

 しかも相手は講義が重なったことがなく全くのはじめましての相手であった。

 実習前に顔合わせと、実習中の研究題材を決める集まりがあった。二人は簡単な自己紹介をし、さぁ題材を決めるぞとなったが、相手は非協力的な人間であることが発覚。題材もすべて私が決めて良いと言い放ち教室を出ていってしまった。実習先にはペアで揃って出向かなくてはならなかったため、待ち合わせ場所や時間も伺ったがすべて私に任せるの一点張り。もう先行きが怪しくなってきた。

 気を取り直して年明け後、実習当日。待ち合わせ場所から一言も喋らず重々しい空気のまま二人は実習先に到着した。

 到着後、職員から配属先を言い渡されるのだが(敷地内にいくつもの建物があり、各建物に利用者が5〜6人。職員が2〜3人いるという形の施設だった。)、私が配属予定だった場所でインフルエンザが発生。次の配属場所が決まるまで実習生棟で待機を命ぜられた。早々に運が悪い。

ペアの相手は別れの言葉もなくさっさと自分の持ち場へと行ってしまった。頼りにはしていなかったが、一人きりになった途端とても心細くなったのを覚えている。

 昼前となり、やっと職員から声がかかり(仮)の配属先が決まった。この(仮)というのは、そこにいる全職員にはまだ確認は取れてないけどとりあえず行ってこいの(仮)である。まだ本決定ではないため異動を言い渡される可能性もあった。

 (仮)では二人の職員が心優しく出迎えてくれた。施設での一日の過ごし方、職員の仕事、利用者のこと…とても丁寧に丁寧に教えてもらい、今出来る仕事をさせてもらった。もうここで良い…ここで2週間暮らす…と思った。しかし幸せはそう長くは続かないのだ。

 夕方頃、朝配属先を教えてくれた職員がやってきたのだ。とても申し訳なさそうな顔で。その顔で私は察した。あぁ…ここでは実習できないのだと…。

 私の読み通り、異動となった。急いで荷物をまとめて異動先に到着。出迎えてくれた職員は3人。だが先程の職員のようには出迎えてくれなかった。

 どうやらそこでは先週も実習生を受け入れていたようで、かなり嫌々だったが私を迎えてくれたらしい。もう態度から嫌々なんだろうな…という感じが出ていた。

 まず簡単なオリエンテーションが行われたのだが、実習生のやることリストが書かれた紙を渡される。終了。職員の名前も聞かされず、では仕事に戻って。という感じであった。

 仕事内容は、料理の支度や洗濯、掃除、雑巾縫いなどであった。実習の目的として、利用者と積極的に関わらなくてはならない立場だったがそれについては明記なし。まあ仕事の合間合間に関われれば良いだろうとその時は思っていたが、それが間違いだと翌日から知る。

 その日は異動した時間帯がすでに実習終了時刻に近かったため、簡単な掃除を済ませ実習生棟に帰された。

 実習生棟に帰ると、そこには他校から来た二人の女子がいた。キッチンでは鍋料理が並べられており、「おつかれ〜!食べよう!」と声をかけてくれた。

 二人は同じく今日からの実習生で一つ年上。とても気さくですぐに打ち解け合った。(私のペアは実習後すぐに部屋に引き篭もった)今日の出来事をシェアし励まし合い、料理も美味しく楽しい夜となった。翌日から続く地獄の日々を知らずに…

 朝になり私達はそれぞれの配属先へと赴いた。実習生たるもの、愛想は良くせねばと元気よく挨拶して入室。しかし挨拶を返してくれる者は誰もいなかった。代わりに「昨日リスト渡したでしょ。早くその通りに動いて!」と大声が返ってきた。人にここまで大声を出されたこともないのでたじろいたが、言われたとおり動いた方が良いなと判断し、早速朝食の準備に取り掛かった。

 施設には調理室というものが一応あったが、そこでは冷めても食べられるものしか作られず、あとは各部屋にあるキッチンで料理をしなければならなかった。家で一通り料理はやってきたが、10人分程ある料理を作るのにはかなり苦労した。当然手伝ってくれる人はいない。けれども、これを普段職員が他の仕事も抱えながらやっていると思うと、この程度はまだ序の口。つべこべ言わず精一杯やろうと思った。

 余談だが、この季節なぜか人参を使うメニューが多く、一生分の人参をみじん切りにしたり炒めたり煮たりをした。そのため今は人参を切るのが苦痛である。

 朝食が終わると、利用者が昼間の行動に移動。その間に掃除機がけ、トイレ掃除、風呂掃除、雑巾縫い、夕飯の支度を行った。

 (その間作業の確認のため、職員に話し掛けても無視。空気のように扱われた。)

 利用者が夕方帰宅、夕飯まで時間があるし自分の仕事も終わっていたため早速関わろうとした。利用者も実習生に興味津々で会話したそうに近寄ってきたり、話しかけたりしてきたため、それを拒まず受け入れようとした時だった。「あんたにはまだ仕事があるでしょう!」一人の職員にいきなり怒鳴られたのである。

「実習生が関わって事故や取り返しのつかないことになったらどうするの!」再び怒鳴られ書類仕事の手伝いをするよう指示された。

 今までの実習では積極的に利用者と会話をしないと注意されていたので、頭の中をはてなが一斉に押し寄せてきた。私の話し方が良くなかったのだろうか…それともタイミングが悪かったのだろうか…書類をまとめながらぐるぐると自分の行動を思い返した。

 その後も利用者と会話をしようとすると、雑務を言い渡され、アプローチを変えようと、目的や意図を表示した上で関わることの許可をもらいに行っても「駄目」の一点張り。 

 しかし実習後に必ずある反省会では「利用者との関わりが少ない。もっと積極的に会話をしろ」と言われる始末。余りにも理不尽である。

 実習中の悩みは職員だけではなく、日誌にも悩まされた。実習後は実習生棟で日誌を書かなくてはならないのだが、なにぶんやっていることが主婦や家政婦のような仕事ばかりなので書けることがかなり少なく、利用者と職員のやり取りを盗み見ては空白を埋め、なんとか1頁を字で埋める…という作業を夜更けまで行った。しかし努力して書いた日誌も職員に読まれることなく返却。心が折れそうになった。

 1週間実習が続いた頃、教授が施設を見回りに来てくれた。久しぶりに見知った人物との会話。心が潤っていく感じがよくわかった。教授は辛いことなどを聞いてくれた。職員に無視されていること、利用者と関わりを持てないこと、日誌を見てもらえないこと…辛いことがポンポン出てくる私の話を全て聞いてくれて、施設側にも掛け合ってみると言ってくれた。とても嬉しかった。空気のように扱われているけれど、残り1週間も頑張ろうと思った。

 残りの1週間はまぁいつもと変わらず。話し掛けても基本は無視。教授が掛け合ってくれたにも関わらず利用者との関わりは増えず、最後まで日誌を見て貰えなかった。けれども毎晩支えてくれた他校の生徒のおかげでなんとか乗り切った。もう最後はヤケクソになって実習していたと思う。(それでも褒められたことがあり、それが米を洗剤で洗わなかったことと、ぬか漬けのぬかを洗ってから切ったこと。なんだそれ。)

 (本当に役に立ったとは思えない)2週間の実習を終え、家へ帰宅すると今まで堪えていた涙が溢れてきた。それを見た父親はなぜか嬉しそうに「社会の理不尽さを思い知ったか!」と笑っていた。

 今は学校を卒業して仕事に就いているが、実習生を受け入れるような仕事ではないし、後輩もまだいない。けれどもこの経験をしたからこそ、目下の者には優しく諭して行こうと決めている。

 実習生は辛い思いをして当たり前という風潮を目の当たりにしたが、それで本当に人は育つのだろうか?才能ある子が実習を苦に辞めていったケースもある。もちろん現場につけばもっと過酷なこともあるため、厳しく接することは必要だとは思うが、無視したり怒鳴ったり、まるでイジメやパワハラのような扱いをする必要性はあるのだろうか?もう少し優しい社会になるといいなと思っている。

 

長文乱文失礼しました。それではまた次のブログでお会いしましょう。 

 

 

 

ご挨拶

はじめまして。長谷川ももかです。

2023年が始まりましたね。皆さんはどのような年末年始をお過ごしでしたか。

 

この度、『長谷川ももかの人生録。』というブログを開設しました。

当ブログでは、長谷川が今まで歩んできた人生の記録(エッセイ)や夢日記、日々の日記を書き連ねていければと思います。

いらっしゃった皆様の良い暇つぶしになれればと思っておりますのでどうぞよろしくお願いします。

 

基本プロフィールꜜ

関東在住の20代主婦

趣味はイラストを描いたりピアノを弾いたり旅をしたり……。

漫画やアニメ、映画や読書、美術館巡りなんかも好きです。

将来の夢は猫さんをお迎えしてゆったり過ごすことです。

 

それでは次のブログでお会いしましょう。